小久保洋子さんの作品

ハンガリー旅の思い出

80年代、宮本輝さんの本に影響を受けてドナウ河を旅した人は少なからずいたと思う。
87年春、その本に魅了された友人に誘われ、アエロフロート航空のオープンチケットを買って、初めての気ままな欧州旅行に出かけた。1ヶ月ほどドナウ河に沿ってドイツとオーストリアを彷徨ってのち、ウィーンでビザを取ってハンガリーに行くことにした。

ウィーンからブダペスト東駅まで4時間半の列車の旅は、パスポートチェック、検札、強制両替、国境警備隊の兵士などが入れ替わり立ち代りで、退屈する暇もなかった。

国境の駅に到着すると、自動小銃を携えた国境警備隊が私たちのコンパートメントに入ってきた。早口で何か言ったが、理解できずにぽかんとしていると、突然 「スタンドアップ!」と強い口調の英語。驚いて飛び上がると、座席下に隠している密輸品の検査だった。当たり前だが隠している物は何もない。無事に終わっ た私たちの次は、隣のコンパートメントのトルコ人男性の番になった。隣から聞こえるすったもんだのやり取りの末、彼が荷物ともども列車をおろされていくの が見えた。
駅の看板は見慣れない記号の付いたアルファベットの文字。私たちの緊張はいやがおうにも高まり、これからとても遠い所に行くという実感が湧いてきた。

列車はしばらく停車したあと、何事もなかったように再び走り始めた。
国境を通過してまもなく、ハンガリー側の車掌が2人、検札にやってきた。日本人は珍しかったのか、緊張気味の私たちを尻目に、私たちの持ち物を好奇心いっ ぱいで観察しはじめた。彼らは私の持っていたCasioミニ計算機を見つけて目を輝かせた。「日本製か!ぜひ売ってくれ!」と懇願され、あやうく密輸の片 棒を担がされそうになったが、それがきっかけで、身振り手振りの異文化コミュニケーションが始まった。マジャール語で「ありがとう」「こんにちは」など一 通りの挨拶を教えてもらい、手帳にカタカナで書き込んだ。25年たった今でもなぜか「イゲン(はい)」と「クスヌーム(ありがとう)」だけはずっと忘れな いでいる。

列車は夜8時過ぎにブダペスト東駅に到着。


マーチャーシュ教会

駅の宿泊紹介はすでに閉まっていた。途方にくれながら周りを見渡すと、【US$○○】と看板を持った客引きたちが目に留まった。Privatzimmerという、一般家庭に泊まれる制度である。
その中から人のよさそうな30代前後の夫婦を見つけ、恐る恐る彼らに値段を確認して、数泊分の宿を確保した。寝るところは確保できたようだが、本当に大丈 夫か。。。緊張しながら彼らの車に乗り込んだ。初めて乗る東欧の車、ブダペストの夜景。なんともいえない空気感が漂う。ドイツ・オーストリアで経験したこ とのない匂いだった。

河に差し掛かったとき、ご主人が「ドゥナ(ドナウ河)」と行って河を指差した。ドナウ河に架かるくさり橋がライトアップされていた。初めて見る「ドナウの真珠」は息をのむほど美しかった。その時の気持ちは今でも鮮明に覚えている。

幸い、彼らの家はちゃんとしたアパートで、その一室をあてがわれた。荷物を置いてから夫婦との身振り手振りでの会話が始まった。翌朝警察で、彼らが外国人 を泊めている報告と、私たちのビザの滞在許可のスタンプをもらわなければいけない、と理解した頃には日付が変わっていた。

翌朝、警察で無事にスタンプをもらってから市街地に出かけてみた。
当時、東欧の中でもブダペストは比較的西側に近く、旅行しやすいと言われていたが、沢山の「違い」に驚きの連続だった。
店のウィンドーには商品が綺麗にディスプレイされているが、中に入ると棚には物がない。スーパーで運ばれてきたパンをめがけて人々が行列を作る。いたると ころで有名な行列を目かけた。街は歴史を重ねた重厚な建物が数多くあるが、修復がされていないものが多かった。街行く人々の顔には厳しい顔つきの人が多 く、そのせいか街の雰囲気が心なしかどんよりとしている。夜、道を歩けば「change money?」と声をかけられる。何もかもが初めてのことだらけだった。

物価は驚くほど安かった。黄色いトラムは10円以下だったのでよくお世話になったし、現地で買ったマジャール-英語辞書も100円ぐらいだったと思う。 (今でも家に保管している)。コンサートも気軽に何度も出かけられ、節約旅行だった私たちも、初めてプチ贅沢気分を味わうことができた。

レストランの外国語のメニューは、ロシア語かドイツ語で、英語は置いていなかった。勘を頼りに一か八かで注文したが、勘が働いたのか、安くて美味しい物が食べられたのは幸いだった。


ドナウと王宮

あ る時レストランで食事をしていると、隣のテーブルの地元の若者が緊張しながら話しかけてきた。たどたどしい英語で「どこから来たのか?」と聞かれた。日本 からと答えると、彼の知っている限りの英単語を駆使して、「very far away(とても遠い)」と言われたことは、当時の自分の心にとても響いた。80年代当時、日本からの距離も体制も文字通り「very far away」だったのである。

それから10年余りで鉄のカーテンが崩壊し、その時の立役者がハンガリーになるとは、「far away」を体感していた当時には考えも及ばなかった。

数日間滞在した家をあとにして、IBUZで他の民泊を紹介してもらった。
次の家はリビングを私たちに提供してくれた。部屋のテレビにスイッチを入れてみたが、いつまでも真っ暗で、やはり東欧だね、と変な納得をしてしまう。だが 30分ほど経ったころテレビから急に声が聞こえて驚いた。しかも日本語だ!徐々に明るくなる画面を食い入るように見ていたら、島田陽子さんが出演した米国 映画「Shogun(将軍)」が放映されていた。なんということか!2ヶ月の欧州旅行でメディアから聞こえた日本語は、あとにも先にもこれ一回きりであっ たのだから。

初めての欧州、特に冷戦下のハンガリーでの体験は、20代の私にとても強烈な印象を残した。

その後の激動の東欧革命を経て、鉄のカーテンも消滅した96年秋、9年ぶりにブダペストを訪れる機会を得た。
かつての行列は跡形もなく、建物の修復は進み、もはや外国語はロシア語やドイツ語より英語のほうが通じる。街行く人々は明るく、国の発展に対する期待感や躍動感が伝わってきた。想像以上に人も街も変わっていたが、ドナウは相変わらず美しかった。


マーチャーシュ教会

滞在最後の夜、長い間ドナウ河を眺めていたら、流暢な英語で「どこから来たのか?」と聞かれた。日本からと答 えると、日本のテクノロジーに興味を持っている若者だった。彼の心には、9年前 に私が同じ場所で聞いた「very far away」という概念は、もはや存在していないだろう。街も人々も隔世の感であった。余談だが、そのとき買ったトカイワインは、当時留学していたドイツで の最後の夜のワインになった。

それからさらに13年後の2009年初夏、3度目のハンガリーは、ビザのいらない旅になった。
ウィーンからバスで国境を通過した。かつての検問所の建物は過去の遺物と化し、「Duty Free」という看板が朽ち果てて、80年代当時の緊迫した「国境」は跡形もなかった。
目抜き通りのヴァーツィ通りは欧米の流行の店が軒を連ね、ここが20年前まで鉄のカーテンの向こうにあった街だったとは思えないほど変化していた。英語も 難なく通じ、沢山の観光客が行きかう華やかな通りになっていた。しばらく街を歩いていると、見覚えのある黄色い路面電車の向こう側に、懐かしいドナウ、く さり橋、王宮が広がった。この景色は初めて訪れた時と同じだった。まるで懐かしい友に再会したような感覚と、またここに来ることができた嬉しさで胸が一杯 になった。

初めてハンガリーを訪れてから、今年で25年が経った
今年7月、ハンガリー映画「Made in Hungary」を観る機会があった。あの映画を観て以来、ハンガリーでの懐かしい数々の思い出がよみがえってきた。今でも主題歌の「Made in Hung?ria」が耳について離れず、ハンガリーに行きたい気持ちがますます強くなって困っている