副島英恵さんの作品

白昼夢のヴィッラーニ

8月上旬の日射しが眩しいペーチ駅のホームで乗るべき列車を探した。
 今日は今回のハンガリー旅行最大のお楽しみであるヴィッラーニに行く日だ。国内であれ国外であれ、旅先にはおいしいものにおいしいお酒、そして静かな環 境を求める夫と私にとっては、千年王国の首都ブダペストよりもワイン産地の小さなヴィッラーニ村で飲み倒れ、くつろぐことの方が魅力的だった。
 
 ヴィーン経由のブダペスト入りから旅は始まり、ブダペストからインターシティに3時間近く揺られてペーチにたどり着いた。その間とにかく「暑い」という 言葉しか出てこず、早く着いてくれと願うばかりで外の景色を楽しむ気分ではなかった。ただし景色と言っても車窓から見えるものは、空、畑、林、集落の連続 で、色合いは黄色みというか、土色を帯びているというか、気分が爽快になる抜けるような青空とはとても言えず、夫が近くの座席にいる女子学生の寝顔をカメ ラに収め、風景に歓声を上げて楽しんでいる様子に腹立たしささえ感じていた。
 ヨーロッパ内陸の夏は結構暑いという認識はあったものの、想像以上の暑さだった。日本のような蒸し暑さではないが、ペーチでは石畳の道を歩いていると日 陰でも上から下から熱気に挟まれて倒れそうで、一キロと離れていないスーパーマーケットに行くにもやっとの思いで歩き、日中は屋外に人っ子一人なく、陽が 落ちてやっと人々は町に溢れていた。
その分、陽が落ちた後のワインはおいしいのだけど、いずれにしても到着して数日間は「こんなはずじゃなかった」とやり場のない気持ちを抱え、夜は涼しいはずと長袖をバックパックに詰めてきたことを後悔していた。
 しかし、ヴィッラーニに行く朝には熱波が通りすぎたのか、空は青く澄み、日陰に入れば涼しい「想像していたヨーロッパの夏」になった。ただ、ごつごつと 四角くて茶色い一見して冷房設備なしと分かる列車を見たときはペーチに着くまで以上に暑いことも覚悟した。
 ところが、いざ乗ってみると窓を開ければ風が気持ちよく車内を抜け、ヴィッラーニまでの道中、空の色は抜けるように青く、林は緑が濃く、沼はきらきら 光ってひまわりの黄色がよく映え、世界が輝いていた。列車は木の間を通ることが多かったが、視界が開けるたびにペーチが小さくなるのが見え、「ヴィッラー ニ!ワイン!」という二つの単語が頭の中をぐるぐる回っていた。車窓からモスクみたいな教会をカメラに収めたり、無人駅では恋人同士の再開と思しき光景に ほほ笑んだり、ベビーカーを下ろすのをこわもての車掌が手伝うのを見ているうちに、あっという間にヴィッラーニに到着した。

駅から村の中心までは1㎞ちょっとだろうか、さあ、ここから泊まる民宿まで歩きだ。
しばらく並木があったので日陰を歩けたが、やがて風が吹くと砂塵の舞う乾いた日向の道を歩くことになった。風は気持ちいいが、日射しはきつい。20分の道 のりも100分の行軍に感じながら、やっと集落の端に辿りついたようで民家が視界に入り、ワイナリーとおぼしきステンレスタンクが並んでいるのも見えてき た。「もう少しだ。もう少ししたら命の水(ワイン)にありつけるぞ!」と自分を奮い立たせ、そこからまたぼちぼち歩きだし、ついにワイナリー集積地の入り 口にたどり着いた。商店や家並みが終わり、2車線の街道の両側に白くて三角屋根の建物がずらっと並ぶ光景が広がった。街道は幹線道路のようで結構交通量は あり、商用車、普通車だけでなく長距離バスや特大車両まで通行することもあるが、総じて静かな街並みで観光客もちらほらいる。ワイナリーの入り口には黒板 や看板が掲げられ、試飲できるようなことが書かれている。中をちらりと見るとテーブルがいくつか並び、カウンターの上にワインとグラスが並ぶのが見える。 「ごくり」と喉が鳴り、どこでもいいから飛び込みたい衝動にかられ、実際飛び込んだが、民宿の位置をワイナリーのおばさんに尋ねるのにとどめておき、ラス トスパートで一気に民宿に到達した。
 たどり着いた民宿はワイナリーも併設し、玄関先は広いポーチになっていて、深い軒があり、風に吹かれてワインを飲んだり朝食を取るのにおあつらえむきに テーブルとイスが並べられていた。外は相変わらず暑いが建物に入るとセラーもあるからひんやり感じられ生き返る気がする。
 チェックインするとウエルカムドリンクのロゼワインをグラスに並々と注いでくれた。「おお!さすがヴィッラーニ!」とごくごく飲みほしたい衝動にかられ るのをこらえ、今後(試飲)のことを考えて控えめにする。民宿の部屋は広々して居心地もよく外出せず夕方まで昼寝したかったが、寝ている間はない。さっ、 行動開始だ。
 まずは民宿に着く道中素通りしたレストランで腹ごしらえだ。オリンピック開催中でテレビでは水球を放映していた。水球がオリンピック種目だということも 知らなかったが、ハンガリーでは人気のあるスポーツなのか滞在中オリンピック放映してます」というレストランなどでよく水球を見た。そのレストランはワイ ナリー集積地のド真ん中にはあるが観光客よりも地元の人が多いようでのんびりした空気だった。日本の小さな町の食堂でおいしい定食を食べている気分と同じ になった。
 我々はハラースレーと牛のラグーのようなものとトマトと玉ねぎのサラダを食べた。日本で鯛料理は一通り食べたことがあり鯛自体には慣れているが、トマト で味付けした鯛は初めて食べた。鯛独特の臭みはあったがおいしかった。鯛はお肌にいいと言われているから、不純な効能を信じて食べたがる夫と奪い合うよう に食べた。玉ねぎとトマトのサラダはハンガリーの定番なのか大概のお店のメニューに載っているうえに、どこで食べてもおいしいからついつい頼んでしまう。 ラグーもパプリカとトマトの風味がよくむしゃむしゃ食べた。
 さて、お腹も満足したのでおもむろにワイナリーめぐり開始だ。まずは民宿までの道を尋ねたワイナリーへ義理を果たすべく門をたたく。道を尋ねたおばさん はいなかったがお姉さんが相手をしてくれた。お姉さんは英語よりもドイツ語ができるようで、私たちの後からきたカップルとドイツ語でワイン談義に花開いて いた。
 言葉もよくわからないし、ワイン用語にも明るくないので、そこは早々に後にして「次はどうしようかなあ」ときょろきょろしていると、戸口に立っていたお 兄さんが「飲んでいくかい?」と声をかけてきたのでうなづいた。そこはお兄さん一人で店番していて、テーブルの端には断裁中のラベルがあり手作り感あふれ るワイナリーだった。お兄さんは気前よくいろいろ出してくれる。試飲料金がかさみそうだなあ、と不安になりつつもピノノワール、カベルネフランなどを勧め られるままに飲む。ワインには詳しくないが、今まで飲んだフランスやその他の国のそれらの種類とは何かが違う。やや青い香りに、硬水を飲んだ時のような少 し硬い味わいが残っている、が、二口目で「これはなんだ!」というなんともいえない奥深さを感じる。同じブドウ品種でも土壌が違えばこんなに違うのだなあ と、実感した。結局請求された代金は買ったワイン1本分だけだった。なんだか申し訳ない気分になりながら隣のワイナリーへ。隣のワイナリーではきれいで肉 感的なお姉さん二人が店番していて夫が「行きたい、行きたい」と興奮してうるさいので行くことにした。
私は「お姉さん」で客を引いてワインはおいしくないのだろうという先入観を持っていたのだが、お姉さんは親切にいろいろ教えてくれたし、前のワイナリーに 負けず劣らず、実直と言うか素直というか固いというか、そんな表現がふさわしいワインを出してくれた。
そこでは「ケークフランコシュ」という品種のワインを買った。初めて聞く名前だが、オーストリアやハンガリーあたりでよく取れるようだ。記憶に残るというかしっかりした味だが嫌みな感じはなくおいしかった。
 続いて、有名どころのワイナリーへ。そこはホテル、スパ、レストランも併設し規模が大きいだけでなく賞も取っているので雰囲気も他のところよりモダンで 上質感があるが、家族経営規模のワイナリーを回った後では「どうだ!」という風情のお兄さんに若干辟易した。しかし、悔しいかな、確かにふくよかでおいし かった。
 ワインは本当に不思議だ。さきほどはフランスとハンガリーで違うことに驚いたが、同じ村で醸造されたワインでもこんなにも違うのだから!!
 結局、合計5軒のワイナリーをはしご(最低5杯は飲んだ)してずっと飲み続け、自分の許容量を超えているはずだが、暑すぎて飲む端から皮膚から蒸発する のか(そんなばかなことはないのだが、そう表現してしまいたいほど暑い)ヴィッラーニワインの特性なのか、あんまり酔わない。不思議だった。
 そうはいってもワインだけ飲んで帰りましたではあまりに即物的なので、一休みしたのちに少しは「観光」らしいものをしようと街道を外れて散策することにした。

宿を出て街道を歩くと街道から脇道がいくつもあり、そんな一本に入ってみた。細い道の両脇に家が割と密集し て並んでいたが、200メートルくらい進むと家が途切れて視界が開け、家の代わりに両脇にブドウの木、正面、左右の山の斜面一面にもブドウ、ブドウ、ブド ウの木のワイン畑が目の前いっぱいに不意に広がった。
 日は山の向うにすでに落ち少し暗くなり、全ての物がうす紫色に染まりつつあったが、物の形はまだはっきり見える。小高い急な山の斜面にこちらを向いたブ ドウの木、ブドウの木、ブドウの木。斜面の間には作業小屋と思しき三角屋根のかわいらしい建物、山の頂には家も点在し、家路に着くのか車のヘッドライトが ゆらゆら見える。
 何組かの人とすれ違い、遠くに歩く人や車が動いているのも見えるのだが、生き物の気配があまり感じられず、静かな薄紫色に染まる夕暮れの光景であった。
 ブドウの木は山の稜線に合わせるように弧を描いて植えられ、斜面の間の道も弧を描きゆるやかな曲線が美しい。その曲線に乗るように肌寒いくらいの涼しい 風がさわさわと吹き、すぐ近くのブドウの木の葉擦れの音、遠くの木々の葉擦れの音だけが伝わってくる。
 田舎の夕暮れの光景にすぎないし、ワイン畑ならこれまで何度も見てきたが、自分の周囲、視界の全てがブドウの木、夕暮れのワイン畑のど真ん中の、今立っているこの位置はこの世のものではない、ここは一体どこだろう、という気分になった。
 斜面を少し上りブドウの木の間に立って、反対側を見やればはるか遠くまで見渡せる平原が続いていた。ゆるやかな丘陵地帯のようだが視界を遮るほどに高く はなかった。ヴィッラーニはクロアチアの国境までほんのちょっとのところだから、視界の端あたりはもうクロアチアかもしれない。実際この涼しい風は彼の国 から吹いて私の頬をなでているのだろう。
 大げさかもしれないが、風に当たり飲んだワインの酔いは覚め、ミネラルの成分が体にしみ込むように感じ、見えている景色をしっかり目に焼き付けた。

東向きの部屋で朝日がまぶしくて目が覚め、庭でストレッチをした。あれだけ飲んだのに、二日酔いの感覚は全くない。あっという間にヴィッラーニ滞在時間は過ぎてしまい、また駅に向かって暑い道のりを歩いていった。
 ワイン畑とワイナリーしかないが、十分だった。ずっといたかった。ここにずっといたらいたできっと退屈で不便に感じ、どこにいたって一長一短であろう。 ただ、この一日はワイナリーでたくさんおいしいワインを飲み、おいしいものを食べ、地元の人とお話しできてよかったですね、終わり、だけではないし、ある いはヴィッラーニでリフレッシュしたとか癒されたというのともなんとなく違う。
 先ほども書いたように「不思議」な一日だった。このハンガリー旅行ではこれまであまり飲んだことのないハンガリーワインを、有体に云えば「テロワールを 感じながら飲む」「ワインツーリズム」を楽しみにしていた。もちろんワインはおいしかったけれどそれと合わせて「違う世界に来た」という思いが強烈に残っ ている。
 インターシティに揺られブダペストに戻りながら、今度は鮮やかに見える車窓からの風景をきれいだとは思うけれど、これとも違う、あれはなんだったんだろうとヴィッラーニの風景を半芻した。
 ブダペストに戻りデアーク広場辺りを歩くと東京の通勤ラッシュと同じくらい騒々しく感じられ、ヴィッラーニ村での一日がブダペストのホテルの午睡で見た夢のようにすら思えた。